今日は地区の子供会の行事で親子ボーリング大会だった。
駒ヶ根にボーリング場があった頃に一回行ったきりで、東京を離れてからほとんど投げた記憶がない。
一応、マイボールも持っているが、指の太さが合わなくなってしまっていた。
昨日、かなりの肉体労働をしたせいで朝から筋肉痛だったが、やはり影響が出てゲームの後半は思ったように球が行かない。
中盤まで200ペースを維持したものの最後にミス連発になってしまった。
一位になれたのは運がよかっただけだ。
地区の子供会の行事なので、都合がわるい子ども以外はほとんどが参加する。
子どもたちが行事の内容を『議決』するのでなおさらだ。
ところが、参加したくてもできない子供もいる。
親が地区の子供会に参加することを拒絶している家庭だ。
小学校に一緒に通学して、「明日はみんなで○○をやるんだよ」と盛り上がっても、そこの家庭の子供たちは参加できない。
子どもたちは一緒に楽しみたいと同級生にはこぼすのだが、親が許さないのだそうだ。
地区の役員も気に掛けて誘いはするが、「家族会議で参加しないと決めているので」と、にべもないらしい。
そこの親は福祉に関心が高く、貧困問題で積極的に活動しているという。
児童福祉に関心がないネグレクトではなく、自分たちの信念を子どもの教育に押し付けているタイプだ。
家庭内の教育方針にあれこれ言うつもりはないが、子どもは地域が育てるという側面はここのような田舎の良いところだ。
隣に誰が暮らしているのか無関心な都心の集合住宅とは異なる。
貸家に住んでいるので、大家がちゃんと地域の事情を説明しなかったのだろうと思う。
地域特性の良い面も悪い面も承知で暮らし始めないと、当人は良くても周囲や子どもは迷惑する。
各自の価値観は大事だが、家があって暮らしが成り立つのは地域の協力があってこそだ。
自分たちが外部でどれだけ素晴らしい活動を展開していても、足元を理解しないようでは本物の社会活動とは言えないのではないか。
明日の朝、集団登校の道すがら子どもたちはボーリング大会の話で盛り上がるだろう。
一緒に学校へ向かいながら、楽しそうなみんなの話を聞いて、参加させてもらえなかった子どもは寂しい思いをするだろう。
自分の子供の寂しさに気がついてやれない、寂しさの本質が理解できないような人が行う社会福祉は「偽善」ではないだろうか。
一緒に参加した大人の一人がこうつぶやいた。
(集合場所のすぐ隣に参加させてもらえない子供の家があるので)
「かわいそうだからって集合場所をよそへ移すわけにもいかないよね。みんなが集まっているのが聞こえてしまってかわいそうだがどうしようもない・・・。」