2008年12月23日
・地域の死を招く白馬の新焼却炉1

地域住民との相互理解なくしてはゴミ処理問題はこじれてしまうのに、頭の固いお役所仕事には住民も困っているようです。
ゴミがなくならない限り焼却場の必要性も認めなければならないので、建設反対だけでは『分からず屋』扱いされてしまう。
資源を焼却してしまっている未熟な行政手段を徹底的に見直し、産業界と地域住民の知恵も借りて、資源の再活用と廃棄処分の高度なバランスを検討することが求められています。
時代錯誤の巨大焼却炉を作って『なんでも燃やしてしまえば楽』なんて暴論は、通用しないご時世になってきました。
しかし、焼却場の建設予定地といわれる場所は、とっても広い面積が候補地として取りざたされます。
さらに田舎の場合は、田畑をつぶしてできるだけ人気(ひとけ)のないところを選ぶ。
安全神話を押し付ける行政側の理屈からすれば、どこに作っても安心な施設なんだからゴミ発生量が最も多い市街地に作ったほうが運営効率が上がるはず。
焼却の廃熱をエネルギー源として利用するためにも、熱供給を求められている施設に併設したほうがいい。
余熱利用施設を後から作るなんてばかげたエネルギーの無駄遣いはもってのほかです。
さて、建設予定地をあらかじめ確保しておきたい広域連合からすれば、焼却炉の危険性はできるだけ住民に知られないほうが都合がいい。
昔に比べれば格段に安全性が高くなった焼却炉ですが、『安全性が高くなった』ことがすなわち『安全な施設』であることに直結しない。
例えれば自動車みたいなもので、安全性能は格段に向上しても、交通死亡事故は減りはしてもなくならない。
安全な自動車なんてものはないんですが、危険を承知の上で利便性のために仕方がなく車社会が容認されている状態です。
つづく。
※記事更新 9:43
Posted by komachan at 09:43│Comments(0)
│社会問題
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