2008年12月02日
・身近な資源の利用が環境を作る

自分のところに手が入っていない山があるから、薪として伐りに来ないかとのお誘いです。
ブログの記事から助け合いの輪が広がるのは本当にうれしいですね。
うちのニセアカシア栽培は、薪に窮して始めたことではないので、切迫した薪獲得を求めているわけではありません。
畦畔の雑草防除の副産物で薪が作れないかなと、『あそび心』の取り組みです。
それなのに、わざわざ山の木の提供を申し出てくれた読者の温かなお心遣いには感謝です。
細い小枝を薪にする作業は、手間がかかりました。
剪定鋏で35cmの長さに揃えるのですが、ただひたすらパチンパチンと鋏で切り続ける単調な労働が続きます。
数百本の小枝を切るのも大変でしたが、果樹農家ではこの数倍から数十倍の枝の剪定作業をやっているはず。
知人から聞く話では、高齢の親が農作業できなくなるとともにリンゴや梨、柿などの果樹を伐採する方がどんどん増えているようです。
時間に追われる現代の社会人には、昔ながらの百姓のコツコツとこなしていく農作業が負担になってしまいます。
剪定した小枝が『燃えるゴミ』として処分されている街中と同じ状況になりつつあると感じます。
山には伐り手を求める樹木がたくさんあるのに、山持ちでも薪を使った生活からは遠ざかってしまう。
畑があって生ゴミは土に返すことができるのに、燃えるゴミに出す農家が増えている。
ずくが信州人の個性のひとつだと思うのですが、これを発揮するにも『ずく』がいる。
時間のゆとりが無いことがこうした矛盾の原因だと思うのですが、金銭的な余裕が時間の余裕を生み出すことを考えれば、農林業の従事者がおかれた環境はかなり厳しい。
日本の原風景である里山を守るのは山里に住み暮らす農家だと思うので、その役割に応じた報酬が得られる社会システムの構築が求められます。
都会の人たちが吸う空気や飲む水は、田舎の農家が支えているといってもいいくらいです。
環境税が早期に実現して、環境の恩恵を得る人たちから集めた税金が、環境を守っている人たちの生活を守るために使われる社会になって欲しいと思います。